はぁ~……流石にため息でありますぞ。。
いや、確証は無いけれども(無いってことにしとくけども)、あんな売り方、水無瀬さんも乗り気じゃなかろうもん…(ㅎ.ㅎ )
いや、メッセージ入りクリアファイルは欲しいですよ、、動画とか超欲しいですよ(正直)? でもねぇ……。
実はね、、水無瀬さんの私専用動画って、一個しか手元にないのですよ。。
お試し企画的に行われた最初の一回の時、、忘れもしない「正露丸!」だけなのです。
いえね、実際は夏祭りでもう一回……撮っていただいたんですけどね。。
猛暑とバッテリーの浪費のせいか、開こうとしたらデータファイル壊れてたんですよね(遠い目)(今だから言える「実は……」)(いや、マジで凹みましたけどね…アレ)
ファイルはあるんですよ。。ただ、1バイトっていう有り得んサイズになってたんですよね。。
あれは、流石に泣きました。
ただ、ちゃんと脳裏には焼き付いておるのです。
私、ツーショやソロショは、基本水無瀬さんにお任せ~なんですが、動画はお題ないと尺しんどいかなぁと、一応考えて「お願い」をしてたとです(だいたい直前に思いついたのに変わるけど) 。特に夏祭りの時は尺長めでしたからね、膨らませやすそうなネタを(ネタいうな)、考えて行ったとです。
お題は「待ち合わせに遅れてきたていで!つい許しちゃう言い訳動画」(じゃっかんの大喜利感)をお願いしますた。
浴衣でしたし、夏祭り一緒に行こ~的なシチュ設定でありまする。
思えば、よくあんなデート設定みたいなのOKしてくれたなぁ。今お願いしたら「嫌だ」と言われそう(ㅎ.ㅎ )
そういう意味でも貴重だったのに……
まぁ、シンプルな軸があった方がインプロ広げやすいかな~、と思っただけなんですが、、私にしては、わりと攻めたお願いだったかもしれませんね。
水無瀬さん、ちゃんとフレームインからやってくれたのですよ。定番の「いっけなーい、遅刻遅刻(๑>•̀๑)」からの、下駄で小走りに「ごめーん、お待たせ!」って、、
私、この初手でもう完全にやられましたし、言い訳始まる前に「許すわ、コレ…」ってなってますた。漫画だったら劇画になるレベルで撃ち抜かれましたもの。。
ぶっちゃけ、私ココだけで満足超えてましてん(只今回想中)。
そっからの、言い訳タイムも凄かったですけどね。
「納豆混ぜてたら家出るの遅くなっちゃった」んだそうで、ずっとジェスチャーで納豆ぐりぐりしてはりました。(持ってきたていなのか身振り手振りの説明なのか、その辺の設定は謎のままですが)
可愛すぎません??
「納豆いっぱい混ぜた方が美味しいって聞いたから!」って、熱心に納豆を語ってくれてるんですが、仕草が可愛すぎて、秒で「そりゃ、仕方ないね♪」ですよ。
まぁ私の性格上、口では突っ込んでましたけどねw
(途中から私の声も入ってたと思うんですが、、当然未確認)
内心は「か、可愛い…」しかありませんでした。
因みに「正露丸」の時のお題は、「本番前に自分を鼓舞する感じで!」でありました。
「鼓舞って口に出して言う人初めて見た」と言われましたけども、、あの頃の方がグイグイで喋りかけてた気がするなぁ。。前のめりに……。
懐かしいなあ~。
動画…欲しいなぁ。。
ただまぁ、、今回は…「いらねぇよ」って言わせてください。(どうせ払う手段もありませんしね)
なんだか、笑いたくない時に「笑って」ってお願いするような気持ち悪さがあるのです。というか、全くもって腑に落ちないのですよ。
いったい誰のためになるんだろう?って、思うのですよ。(あくまで個人の考え方でし)
それに、、「今までありがとう」とか、ほんとにいらんでやんす。「お礼」とか「感謝状とか」そういう君らに準備された「綺麗な終わり」を求めているわけじゃないのでやんす。
やっぱ、別に「ちゃんと」終われなくていいわ、オレ。と、心底思いましてん。
まぁ、年末のぶっ壊れで原点回帰してなかったら、ヤミ金行ってでも飛びついてたでしょうけどね。。
そう考えると怖いなぁ…。
なんか、ちゃんとオタク出来てないというか、ラグや距離感凄い現状ですけど、、そんな中でも、水無瀬さんのちょっとした一言とかに救われていたりするのですよ。
そもそも、これ「お仕事」の振り方としてもどうなんですかね……。マージンというか、、ギャラの設定はどうなんでしょう。。当然、原価以外は全額メンバーさんの取り分ですよね?(♢ω♢)? 頭下げて了承を得た「依頼」なんですよね!!? (どうせ違うんでしょうけど……)
そういう経緯にもよる気はするけれど、、いずれにしても、水無瀬さんが気持ちよく取り組めるお仕事じゃないなら、自分の「欲しい」は、どーでも良かです。(あくまで個人の…ry)
そういう、既に筋の通ってない物に「けじめ」とか「責任」ってラベル付けて頭ごなしに押し付けられたこと、、私にも経験ありますから。。
芸プロってほんとにさぁ……。
人間の大切な感情をミジンコ扱いするプロだよなぁ。。
ゲスプロやんな。
タチが悪いのは、人の心を踏みにじるにあたっても精神論を振りかざすところ。結局、イエスマンしか可愛がらんくせにね。。
鈍感にならなきゃ、付き合っていけませんにょ……。
って、、いくら閉鎖的なブログでも本音が走りすぎましたな、、。
( ´◎`)スー( ˙࿁˙ )ハー( -᷄ ω -᷅ )ふぅ~💨
手が、、滑りました。。鈍獣の皮を被り直さねば(´・ω・`)ゞ
私の「好き~」は安定しましたし、、告知見て「は?」って思ったら、整理おっついてなかった締め括り的なお話も、なんかどっか行っちゃいましたな。。(まぁ、引き続き整理はしますけども)
ちょこちょこ言っておりますが、水無瀬さんからは、私には贅沢すぎるほど色んなもの貰ってきていますから、こんなタイミングで捩じ込まれた「欲しい」は握りつぶしませう。
私には、水無瀬さんのサイン入りPS4あるからいいもん!
そもそもね、、欲しい!より、会いたい! なのですよ、、心底。
落ちてた期間もそうですが、、もうずっと、、ひたすら「会いたい」のです。
夢でも沼でもかまわないから、水無瀬さんに会いたいマン!
うむ。かまいまするな、、やっぱり直接会いたいマン……。
ただしかして、薄々感じていまするは、、そもそも水無瀬さんってわりと沼の民なんじゃなかろうか…という予感。
まぁ、私ほどどっぷりじゃなかろう~、と思いつつも、いうて私がのんびりと沼れない現状につき、ちょこちょこ私より沼感あって、羨ましいやらちょっと心配やら~……とまぁ、まーた余計な感情ばっか元気なのでありまする。。
そうそう、この話をするなら、先に言っておかなくてはならんことがありますな。
私のよく言っている「沼」って、別に落ち込む~とか、病んでる~って意味合いでは無いのでやんす。
そこは、お間違いなきようお願いしまする。
色んな側面があるので、一言で説明するのは難しいのですが~……、感受の迷宮と言いますか、精神のスパイラルゾーンと言いますか、深層心理の凪と言いますか。。
私は「沼」と「闇」を区別しておりますゆえ、「闇」とも「病み」ともイコールではないのですよ。
(ただし、沼は闇も病みも内包しております)
まぁつまり、表層する出来事やら言動やら、それこそ思いや悩みやら~のもうちょっと内側の世界観でありまして、、掴みどころのないもの、答えの出ないもの、そもそも答えのないもの~なんかの巣窟でありまする。
確かに、人生に迷ったり、落ち込んだりした時に踏み込みがちなエリアではありますが、私のように好んで浸かってる人間もおるわけで、、うっかりではなく、自分の意思で沼に出入りする人(もしくは入りっぱなしの人)を、私は「沼人(ぬまんちゅ)」と呼ぶのです。
ナルニアに出てくる「沼人(ぬまびと)」とは似て非なるものですが、、幼少期の「泥足にがえもん」への憧れが「沼」というワードに落ち着きを感じる一因にあるかもしれないので、無関係とは言いきれないかも知れません。
これは、再読してみないと確認とれませんな。。
しかして、シリーズで一番好きだった「銀の椅子」。
好きな登場人物も、ジルとにがえもんの二強です。
偏屈で発言も思考パターンも超ネガティブなんですが、、前向きな行動と善処の数々、何より仲間思いでハートフルな「ツン」の塊です。
石橋を叩き割って泳いで渡るような男です。
うーん、これ、別途掘ってみた方が良さそうな案件ですね。
私の人格形成に関与してそうな極端な存在を引き当てた感あります。
冷めててひねくれてて文句ばっかで、その実ハートフルで紳士的?(←表面上は真逆)で誰より熱い。。
見た目に一切の拘りが無く、表面的なものより内面や裏側ばかりをじぃっと見ている陰気臭い男です。。
ただね、、確実にナルニアきってのエースキャラです。
読み進めていくうちに、きっとコイツが動いてくれる、コイツならやってくれる、と思わされていく奴なんです。
はなっから何も信用せず、疑い深く、ネガティブ。。
だけどだからこそ、疑り抜いた末に信じることにしたものをちゃんと信じ抜く力があるのですよ。
私の、ネガティブをひと通りさらうスタンスの原点……もしかしたら、この男かもしれません。
以前、水無瀬さんに「平成のスナフキン」という不思議な感想を頂いたことがあるのですが、、私のフラフラした生き様をスナフキン的という人は、確かにいまする。
まぁわりと相談事や頼み事がある時しか連絡よこさないタイプの友人なので、、旅人感とかではなく、便利屋と言う意味合いで受け取っていましたが(顔は似てませんからw)……、もしかしたら、私に滲むスナフキン感の正体は、、この「にがえもん」だったりするかもしれませんなぁ。。
興味あったら挿し絵を検索してみてください。。
わりと私っぽい生き物が、そこにいると思います。(「似てる」という意味ではありませんよ?w)
ちょっと本筋からはズレましたが、、にがえもんはキーかも知れませんね。沼の原点であり、ネガポジのルーツでもある気がします。
にがえもんみたいになりたかったのか、、にがえもんに共感したのか、、その辺は定かじゃないですけどね。
というのも、、確か私がこの辺のファンタジーを読み漁っていたのは、小2~4年くらいなのですが、、それ以前から私は偏屈でしたし、ネガティブな空想癖であったはずなのです。。
実は、他にも引っかかる作品がありまして、、「どろんここぶた」というアーノルド・ノーベルの絵本。。「はてしない物語」の悲しみの沼、、あたりから、私はそもそも沼四次元性を感じていて、沼の中の世界に興味があったのですよ。
特に「どろんここぶた」は、沼に居心地を見出していて、気に入ったものをなんでもかんでも沼に持ち込む習性がありましたから。。(まぁ、沼じゃなくてどろんこなのですが……)
ただ、そもそも論、どの沼も沈んだ先は描かれておらず、沼の中で「見る」という謎な感覚を示唆するものではないのですよ。
大元を辿れば、「ここは闇というより沼だな…」ってなったのが先にあったわけで、それはまとわりつく感じや、地に足のつかない浮遊感と闇の視界の悪さを足した感覚だったんです。
そこから沼との葛藤が始まり、最初は何も見えず手探りだったのが、気付いたら「あれ?落ち着いたら周囲見えるやん」ってなっていったんですよね。。映像的なイメージは、わりと深海のイメージに近いのです。
ただ、ゆっくり沈む感じや漂う感覚は「水」ではないんですよね。。
なので、、沼の中は慣れてくると視野が広がるという、比喩の域をはみ出した自分ルール全開の世界観になっていったのです。
深海のイメージと最も違うのは、沼の底はまた沼になり得るというところです。居心地の良いレベルまで慣れてくると、粘度が下がり、より深く沈めるようになっていくのです。
まぁつまり、沼だったエリアがだんだん水っぽくなって新たな沼が広がっていくのですよ。
いわゆる内側の宇宙を「沼」と呼んでいるだけと言えなくもないんですけど、、宇宙だと見えすぎるし、ブラックホールだと中に何も無さすぎるので、、やっぱり「沼」がしっくり来るのです。
にがえもんが沼人であるという点も、「この感じは沼だな」と感じた理由に含まれるやもしれません。
私のいう「沼」は、わりかし頭でっかちの人が好むエリアなのでありまする。が、、一方で感受性やら第六感やらを消耗して体感的に解釈することの方が多いので、理論武装の合理主義者には向かない世界だったりもするのです。
ただまぁ、なぜ沼かということよりかは、沼がマイナスの象徴では無いということが大事であります。
沼に未来そのものはありませんが、未来への手がかりはいっぱい落ちています。
内の内なんて滅多に光は差し込みませんので、暗くて重くてジメッとした印象にはなりがちなんですけどね。。必ずしも、マイナス感情の塊では無いのだよ!ということだけは、声を大にして言っておきませう。
ゴパッ!!…ケホケホ……(←沼底で声を大にするとこうなります)
あ、はい。
そもそも、その前提がなきゃ私が常に「病んでいたい人」みたいですしね……。(←この印象…(/)・ω・(ヾ)つらいむっw)
別に沼ってテンションとか気分とか関係なしに潜りっぱで居られるものだし、沼人でありたいならそれも良きかな~とも思いますけども、足つきの良さを求めがちな世間様とは、距離が開いていきますやで~、と。
それってつまりは自分の内を漁る自分探しじゃん!?と言われると、、実はそんなにシンプルなお話でもなく、、気付けば人様の心理に触れていたり、普遍やら不変の欠片が沈んでいたりする場所なのです。逆にいわゆる自分探し~を好む人は、あまり踏み込まないエリアな気もします。
だって自分探しって、丘を行く旅人がするイメージじゃん?と。
私もかつては迷宮や森のイメージを持っていたのですが、、そんな整備された足場の良い場所じゃねーなぁココは……と、「沼」という形容になって行ったのでありまする。。
と言いますか、、たぶん最初はちゃんと自分探し~をしていたのですよ。
整備された迷路の規定ルートから外れて樹海に迷い込み、樹海の奥で沼にハマった~、、のではないかしら、と。
しかして別にそれは荒んだ末とか、傷を負ったが故とかではなく気の向くままに歩き続けた結果だったと思うんですよね。
まぁ若い頃は、よく知人から「闇深」と言われていましたが、、別に闇ではなかったですよ?というお話。
まぁ最初は「落ちる所まで落ちてみよう」って、凹み漁りしてたところからなんで、私自身も「闇」だと思って潜ってたんですけどね。
闇は闇で別にあると言いますか、沼で視界を失うと闇に落ちると言いますか。まぁ、イコールではなかったのです。
そもそも、沼以前にわざわざ闇に身を投じていたのにも理由があるとです。
私、俳優やる前から感情の性質を掘り下げて言語化することに躍起になっていたので(←一応、小説家志望、趣味は作詞作曲で、漫画も描いてましたからね)、傷付くなら徹底的に、自分の気持ちに正直に~って、やってたらこんな感じの生き物になったのでありまする。
ゆえに、「好きー」もとことんだし、どう好きなのかもちゃんと知りたいから、シンプルになれなかったりするんですけどね……。
いちいち言語化しようとするせいで結局なんかチグハグになるのです。ほんとは説明なんかしない方がいいことも沢山ありますからね。。
全力の感情を体感するためには主観であり続けなきゃいけないのに、それを解析するためには客観でなくちゃいけない。この矛盾がズレてく原因でもあるのです。
まぁ普通は理性的に感情を制御するから客観視すること自体は簡単なんですけど……全力の自分を知ろうとすると、二人分の精神と集中力が必要になるのです。
抑制の仕方なら、その辺の自己啓発本でも捲ってれば身につくけれど、暴走の仕方は誰も教えてくれないですしね。。(俳優のお勉強をすると教えてもらえますがw)
根が素直じゃないですから…。
だから、「手が滑った」りしちゃう水無瀬さんに惹かれるってのもあるんですけどね。
ギリギリアウトやろうな、、てか、流石に怒られるんだろうなぁ……と心配もしておりますが、ああいう時に不快感を隠しきれない水無瀬さんの真っ直ぐ人間臭い感じ、私はとても好きです。
言いたいことは言えなくても、示すことは出来るのよね、、と。
まぁいうて私も、言いたいこと言って生きてられる口ではありませんから、、。
オタクしていても本音ばかりでは居られないですし、あれでもわりとしゃしゃるのを抑えているので、正直水無瀬さんのぶっこみ方見て「かっけぇ」っていつも思います。
ああいう「言っちゃった」時の水無瀬さんを見ると、心配よりも「さすが」「素敵」って気持ちの方がボリューム大きくなるのですよ。
私の本質は「我慢しろ」じゃなく、「吐き出せ」って側ですから。。
それでも「よく言った」とか「いいぞもっとやれ」みたいなことを言えない自分が歯痒かったりするのですよ。やっぱり「気をつけて~💦」「堪えて~💦」って言いそうになる自分がいて、嫌になるとです。
私は、、感じたことをそのまんま伝えるとは限らない…というか、まぁ十中八九、伝えませんから…「そうだそうだ」すら言えないことが多いですからね。。
外面がね、、分厚いのです。
だからこそ、私のフィールドはファンタジーだったわけですしね。
そんな外面で生きてる私にとって「沼」の説明は蛇足といえば蛇足なのですが、、このブログでミスリードを誘発する必要は(たぶん)ないですからね。誤解を生まないように、最低限の補足はしておこうかなと思った次第でありまする。
そして、補足のくせにまたきっと長いのです。。
私が沼と呼ぶエリアは別に特別な意識を持った人が入れる領域~とかではありません。例えば、、誰しも一度は思う「宇宙からみた私はなんてちっぽけなんだ」みたいな感覚は、わりと沼の入り口というか、、まぁ、落とし穴的なスポットです。(水無瀬さんも言うてはりましたなぁ)
けっこう皆さん、それを口にするだけで満足されるんですけどね。「なんてちっぽけなんだ」と言うだけならば、別に沼の外で言えまする。
そのちっぽけな私を、内から外からじっと見つめ、感じ、考え始めると、、沼に沈んでいくのです。
ミクコスを体感し始めたら、沼の淵ですな。
勿論これは例えば、のお話。
ある人から見れば深淵の向こう側の世界が、ある人にとっては庭先の出来事だったりしますゆえ、「この題材は絶対沼の中にある」なんてものは、なかなか無いのですよ。。(あるにはあるけど、、)
傍から見れば浅瀬の水遊びに見える些細なことが、実はもうずっと沼の底に沈殿したピースを探している最中だったり~とか、ね。
沼は広くて深いですし、境は極めて曖昧ですから。。
だから、深淵を覗いたつもりが私と目があった。なんてことも、もしかしたらあるかもなのですよ。(wktk)
「深淵がこっち見てた!!」「あ、ごめん、それワシ」つって、キャイキャイしていたお年頃もあったわね~……(遠い目)(いや、そのまんま台詞的に言う程、抽象的な会話はしてませんでしたけども)
ふむ。。
まだなんかまどろっこしい&重苦しいですな。。
私の沼には、もっと可愛いライトな感覚もありまする。
例えば、私には昔から尻尾の感触がありました。
(この時点で「は?何言ってんのコイツ」って引いた方は、読み飛ばしてくださいませ~)
別に人より尾骶骨が発達していたわけではありませんが、感情の起伏に応じて(わりとふさふさした感じの)尻尾が反応する感覚があったのですよ。(かなり弱くなったけど、今もあります)
まぁでも、人間の尻尾…について語り始めると、、長くなるので……ちょっと軽く、触りだけ~(でも、しっぽは触らんで下さいね! ふぎゃーってなるから)にしときまする。
昔はね、しっぽを振ってたり、しっぽを逆立てていたり、しっぽの先が触れる感じが気持ち悪くて真後ろを歩かれるのが嫌いだったり~……って感覚の話を気軽にしていたのですが、、あまりに共感者がいなくて、感覚丸ごと沼に引っ張りこんだのですよw
ただね、、漫画なんかで獣人のしっぽの敏感さを性感的に描く風習があるじゃないですか? (まぁ、あれはモデルケースがどっかにあるんでしょうけど)最初に表現しだした人は、しっぽの感覚を知ってた人なんじゃないかなぁ、、とも思うのですよ。(知らんけど)
動物を観察していても、そういう素振りってあまりありませんからね。。
実態が無いからこそ、人のしっぽはより一層感情的且つ過敏なのですよ。(←強く意識してる時に限ります)
当然、物理現象はありませんので、我慢という段階が無いんです。 逆立つ時も項垂れる時も、なんなら感情が実感するより先に反応します。
まあ、触れられた感触に関しては、やや妄想的な身体感覚な気もしますが……反応としての身体感覚があるから、その延長…というか、感覚の拡張で、触れられた感触をなんとなく感じ取るようになります。
ただ、痛覚は無いですね。おもっきし踏まれたこともあるんですが、びっくりはしても「痛っ」てなることは無いみたいです。
そもそも感覚だけなので「遮断」することが出来ますし、元素の構成は一切存在しないので、平気ですり抜けますからね。(当たり前)
その程度の「触覚」で知る限り~のお話ではありますが~…
しっぽを触られるのは、基本的に嫌であります。
あれ、ゾワッとするのですよ。。
ただね、、気を許した相手だと、不快なゾワ……じゃなくなってくるんですよね……だんだんと。。
耳の感覚に近いかしら、ね。
(これ、「恋バナ」と同様、外側のオッサン切り離して考えてくださいね? じゃないと、「三(((((´ω`;)キモッ!」ってなるのは、私自身も同意ですし、、それじゃ、話が進みませんから……)
快感になる予感はありませんが、気を許した相手だとむしろしっぽが触れるくらいの距離が落ち着くようになってくるのですよ。
……つっても、さっぱり伝わらないでしょうから、私なりの解釈と解説をば……。
例えばね、「背後」を生理的に許せる距離感や、逆に拒絶反応みたいなものって、たぶん誰しもあるものだと思うのです。そしてその感覚って、人間が進化の過程で切り捨てたはずの本能の名残だったりすると思うんですよねぇ、、
その名残を敏感に辿ると、尻尾の輪郭が見えてきて、そのしっぽの先が背中より後ろで周囲の気配を警戒するアンテナ的な働きをしていることに気付くのです。
うむ、まだ伝わりますまい……。もうちょいいっときますか。。(←結局長くなる)
「悪寒が走る」とか、「背筋が凍る」って表現がありますけど、あの感覚が、必ず上から下に走るのって、たぶん誰しも体感的に知っていると思うのですよ。
その終着点が、実はしっぽの辺りだってこと以外は、みんななんとなく気付いていると思うのです。
まぁ、自覚するタイミングが、背中や肩あたりのことが多いし、同時に肩から腕へも走りますから、背中の悪寒の行き先なんかは知らんがなってのが一般的なお話だと思うんですが、、間違っても足元に向かって~無いのです。
足の力が抜けたり、膝がガクガク言い出すのは、背筋よりずっと後です。それも正確に言うのなら力が抜けたのは「腰」ですよね。ただね、ここでいう「腰」って、たぶんウエストのことではないのですよ。。
日本的な感覚で、意識を高めたり力を集約する時は「丹田」つまりは、腹部を意識するため、その付近と混同しがちなんですけどね。。
ガクッとくる腰砕け……いわゆる腰が抜けるって感覚は、腹ではなくもっと後ろ、しかも腰骨より低い位置で起こるのです。
もう一点、気合いを入れる表現に「ケツの穴を締める」という表現がありますよね。
というか、物理的にケツ穴をキュッと締めて気を引き締めることあるじゃないですか。(ない人いたらすみません。。)
実際、スポーツやパフォーマンスで、わりとしっかり差が出る習慣のひとつなんですが。。(←コレはわりと通説)
その時、一緒に働いてる筋肉って実はさ~ってお話です。
これは、実際にしっぽのある連中で試してみると分かります。
例えば、猫のケツ穴に「フッ」と息を吹きかけると、ビクッとケツ穴締めるのと同時にしっぽがピンっと反応します。(←こういうイタズラしません?)
単純に、この辺の筋肉は連動してるのでありますよ。
と、いうことは、気合いを入れる時にケツ穴締めるって、存在しない尻尾をピンと張っているということだったりしないかしら?? という、私なりの解釈に至るわけです。
したくもない時にう〇こを全力で我慢することが身体能力の向上に繋がるとも思えませんしね。(←言い方)
だから私は、「ガンバ」(冒険者たち)の言う、「しっぽを立てろっ」って表現は、好きだけど「なんか違う」なのですよw
私の体感的には、「しっぽを張れっ!」って感じでありますゆえ。(しらねーよ)
齋藤先生の扱うしっぽは、きっと観察からくるイマジネーションなんだなぁ~、という感想を持った幼き日の私なのでした。
しっぽはアウトプットとインプット両方に長けた特殊部位なのですよ。無意識レベルで動くこともあれば、意思で動かすこともある。
まぁ実は、全身そう出来ているんですが、、それがはっきり出るのって顔だけなんですよね。
うむ、、誰にも伝わらん話を伝わりそうな領域まで引き下げようと引っ張りすぎましたな。(結局長い……)
しっぽのことは忘れてくださいませ。
脱線が過ぎたので、少し話を戻しませう。
Twitterとかって断片的な上、例え本音でも角度を変えて書けてしまうし、受け手も280度くらいグルっと角度変えて見れてしまうから、変に「理解」をしようとするのは危険なんですよね……。
特に水無瀬さんは、裏腹~なことも多い気がしますし、、ファボ一つとっても「わ、、解らにゃい……」ってなる意味深なお方ですので、、「こういう意味でしょ?」みたいな決めつけはしなーいっていう自分ルールはあるのだけれど、それでもやっぱり、どうしたって色々読み取ろうとはしてしまうんですよね。。(「こういう意味かな?」程度に)
その上でよく感じるのは、水無瀬さんの思考って、とても直感的と言いますか、叙情的なのに、よく練られているんだよなぁと思うのですよ。
凄く感覚的なことを、言葉を上手く使ってアウトプットしてる印象があるのです。
勿論、年中無休ってわけじゃないでしょうが。
沼ってのは要するに無意識の領域ですので、思考をパズルみたいに組み立てていくというよりは、感受性で探ってくしかないんですよね(まぁ、沼掘りは詰め将棋みたいなもんなので、私は沼でもパズルしてますけど…)。だから、あまり表面的、叙事的な説明は意味をなさないと言いますか、言葉の置き換えをしないと表現出来ないことが多いのです。
水無瀬さんの言葉って、そういう「細部を感じ取って」再構成する思考パターンから発せられてる気がするのですよ。(はい、あくまで気がするです)
思ったこと、感じたことをそれだけで留めず、その感触の更に内側や要因に手を伸ばす。傷が痛いから絆創膏を貼って勝手に治るのを待つ……んじゃなく、傷をじっと見つめ、その内側を思索する、、時には自ら傷口広げて、さらに奥まで……とか、、
自身の内部とそういう向き合い方をしてる人なんだろうな~、って感じるのです。
そこには、一つ大事な基本事項がありまする。
自ら沼に潜る理由は、「もっと知りたい」からであり、沼で感じた何かを引きずりあげるのは、誰かに「伝えたい」からです。(伝えたい相手が自分自身なことも勿論あります)
いくら視界が広がる~とか光もさすよ~とか言ったところで、所詮は沼の中です。薄暗いところで見つけられるのは、輪郭のぼんやりとした「こんな感じ~」レベルのものです。
近付いて手に取るまでは、その大きさも感触も解りませんし、ちゃんと明るいところで形容しなければ伝えることは出来ません。
そして初めて接触する感覚は、明るいとこに持ち帰っても、形容し難いものだったりします。そもそも直接的に指し示す言葉があるなら、わざわざ潜って探索しなくても良いのですよ。
それを伝えるためには、知っている何かに置き換えて伝えなきゃなりません。
比喩や例え話の様な言葉の置き換えにはいくつか目的のパターンがあります。
一つ目は、言葉の輪郭を書き換えることで「具体性」をぼかす目的。
風刺やオブラートが代表的ですが、「隠喩」で行うのが基本です。
二つ目は飾りつけて元の言葉より有効に響かせるため。面白くする~、解りやすくする~、オシャレにまとめる~、単純にボリュームを増す~など、更に細分化出来ます。総じて「表現方法」なので、「隠直」は問いませんが。飾りを外して元の言葉に戻してもだいたい伝わります。
三つ目は、そのままではどうにも上手く伝えられないものを伝えるため。
「解りやすくする」に近しいですが、二つ目と違い、そうするより他に伝える術がない前提があります。
置き換えていることが伝わらなければ意味が無いので、ほぼ絶対「直喩」になります。
例えば、伝えたい内容について相手が何も知らない時(文化の違いで見たことも聞いたことも無い物の説明)や、自分が伝えるのに適切な言葉を知らない時に、未知の部分を補う目的で使います。
沼からの言葉は、ほぼほぼ三つ目の置き換えで伝えることになります。
既に誰かが持ち帰った物を見知っていれば、沼の中の物をわざわざ事細かに分解する必要がありませんし、そもそも自分がわざわざ潜って持ち帰る必要もないわけです。
まぁでも、、そうとは知らずに一生懸命探り当てて身振り手振りで説明したら、「あー、それ知ってるわ~」って言われて「うわぁ~、オレってばあっさいな~(潜るのが)」てなこともありまするw。逆に私から見てそういうこともありますしね。
本来この深い浅いっていうのは、内側に向かった奥行の深度なわけですが、私の場合はそれが沼の深さに置き換えられるわけです。
うむ、、まだまだ辻褄合わせやイメージの構築は必要だし、そのためにはもっと色んな理を知ってかなきゃならんのだけど、こういう具象と抽象の分解と構築を繰り返して私の沼は姿形を変えていくのです。
当たり前なんですけど、これは私が内側を可視化するために施した感覚のロジックなので、沼として触れてる人はおらんでしょうが、形はどうあれ誰しも覗きはする場所なんですよね。
まぁ、本来は居心地の良い場所でもないんで、ウロウロすることはないかもしれないですが。
それを居心地良くして長居しやすくしよう~ってのも目的の一つだったのです。
なんでそんな面倒くせぇことをしてるかと言えば、まあ半分はただの好奇心、もう半分は言わずもがな……ですかな。
因みに私は、身体感覚や第六感みたいなものに加え、独自の価値観に基づく「外部思念」や「収束力」「補完フィルター」なんかも等しくそこで取り扱ってますから、フィールドを広めに保ってますが、例えば心理学や哲学なんかも、「沼」の一部にスポットを集約した学問ですよね。
主に誰かが沼から持ち帰った物や情報を収集し、統計的に解析していくのが心理学。実地研修をする際も、自ら身を投じるというよりは、サルベージして沼底を攫うイメージです。
対して、自ら沼を探索し、沼から連れ出せない大きな影を見つけては、名付けて紹介しているのが哲学者です。
つまりは、そういう学問に触れる折には、必ず沼を掠めるし、言語で理解が及ばない時には、自ら潜って探索してみることもあるでしょう。
他人を知りたい時なんかにもよく潜ります。
なんでそんなことするのか分からない時、や、あの出来事を受けてどう感じたんだろう。って思った時なんかも、脳みそで理詰めするよりは沼でひんと探します。
知る由もない人の気持ちを理詰めで解き明かすよりは、想像し手探ることで、ヒントやきっかけ、、「もしかして」レベルの欠片をなぞりながら追体験を試みた方が、正解に近付ける可能性はグッと上がるのです。
まぁしかして、水無瀬さんがわりと沼の民~というのは、あくまでそんな気がする~ってだけのお話です。
実際に面と向かってじっくりお話したわけじゃないですからね。
この言葉は沼発信っぽいなぁ~と感じても、あまりそういう拾い方や広げ方はしないように気をつけてるつもりですしね。
そもそもTwitterなんかは、沼から顔出して組み直した言葉を文字にする場所ですから。
表向きはなんてことない言葉から「沼」っぽさを感じることもあるのですよ。
言葉その物ではなく、言葉に滲む……ん~、違うな、 、言葉の纏う気配みたいなものです。
以前も軽く触れましたが、「言葉」はあくまでも入れ物であります。
「手が滑った」ツイートや比喩なんかは中身をすり替えてらっしゃるので、滲む~であってるんですが、沼で触れてるものを言語化する訳じゃなく、沼にいながら外側に置きに行く言葉って、中身は一応言葉通りのものを添えているのですが、わりと中身の濃度が薄いから、隙間から沼っぽさがまざりこむことがあるのですよ。
誰もが立ち入る場所だと思っているので、沼にいること自体はなんら不思議ではないのですが、水無瀬さん、わりと深く潜るし、長居もするし、探索もするし~ってタイプな気がしておるのです。
ただ、居心地がどうなのかは聞いてみないと解りませんけどね。
宇宙感を体内に感じられるタイプみたいなので、イメージ化も出来てるんじゃないでしょうか。そもそも「内なる宇宙」みたいな言い方の方が、一般的ですしね。(内包物やベクトルが若干違いますが、同質のものだとは思うので)
沼を揺蕩う時間って、誰しも必要なものだとは思うのですよ。多かれ少なかれ、浅かれ深かれ、、朝カレーは華麗にフカヒレ~。。。
うん、今のは酷すぎるからナシで……。(手遅れ)
(感情的にも)ジタバタしないのが一番なのです。
ただ静かに沼の景色を楽しんだらいいのです。足掻けば足掻くほど水は濁って、視界は悪くなる一方ですからね。裏を返せば、焦れば焦るほど、沼にハマるものなのですよ。
疲れ果てるまでジタバタするのも良いけれど、結局最後は一呼吸置かなきゃいけなくなるもんだから、、だったらなるはやで肩の力抜こう~ってお話であります。
沼の底が静まり返ったら、色んなものが見えてくるもんですから。
まぁ、今は沼の底にワシの亡霊がおって(いうてあっちが本体だけど)暴れよるんで、視界めっちゃ悪いんですけれども、、アイツはそろそろ黙らせますしね(´・ω・`)ゞ
まぁ、本体から「私」の部分抽出してこっちに移してますので、ジワジワ弱体化すると思うので、もうちょっと静まったら言い分聞こうかと。
いやいや、亡霊がいるのはお前の沼の話じゃね?って思うかもしれないけれど、実は「沼」って、そこまで独立したもんじゃないんですよね。
誰かの言葉だったり表情だったりが沼に漣を立てることもあるのです。というか、そうでなければ沼人はただのぼっちですから。
裏を返せば、沼に漣立てたり鎮めたりすることで、人に影響することも出来るかもしれないわけで、プレイヤーもクリエイターもわりと好んで足を踏み入れるんですよ。ネタの宝庫ですからね。
ただ、彼らは嗅覚や直感力が半端ないんで長居しないでサクサクッと欲しいもの拾っていきますけどね。
私は瞬発力が足らないし、じっくり全体を見渡したいしでどっぷり~なわけですが、
不思議なもんで、沼でフワフワ散歩していると色んな人を見かけるのですよ。
そんな時は「あぁ、君も来たのか」って思って見ておりまする。
大概はみんなもがいて登っていくから、こっちに気が付くことなんかないんですけどね。
感覚の近しい人となら、沼の底で会話だって出来るのですよ。
ま、ある程度近所の沼に沈んでいればの話だけれど。
私はしっくりくるから「沼」とよく言うけれど、勿論あくまで例えであって、、深海だって良いのです。
いずれにしても、普段からけして視界は良くないです。
誰かが暴れていると、自分の手足も見えなくなるのがわりと普通なのですよ。
ただね。慌ててもがいて上っていく人達の落し物も、沼には落ちていたりするのです。
悩んでる場合じゃない!つって、気合いで前に進んだり、飲み込めないものを飲み込んだフリをして立ち上がったり~っていう瞬間が人生には多々あるもんですが、そういう放ったらかしの「実は」未解決な案件が沈んでくるのも沼なのですよ。
まぁ、だからマイナスイメージが強いんですが、、悩み事って、それ自体はマイナスでもプラスでもなく、「問題提起」なので、どういう感情で眺めるかでだいぶ意味合いも印象も変わってくるもんなんですよね。
例えばね。悩み相談って、必ずしも「答え」を出すことが正解じゃなくて、聞いて受け止めることで役割を果たすことが多いのですが、、受け止めた悩みは「捨ててお行きなさい」ってなることが多いのですよ。
まぁ、「答え」を添えることもありますが、、だいたい「いや、、答えはひとつじゃないでしょ…」ってものの「あくまで一例」的な答えだったりするので、そういう不透明なまんま終わったものも、沼に持ち帰ったりするのですよ。
悩みを捨てて先へお行きなさい~って言ったり、悩みの矛先をすり替えたり~が、ちゃんとハマっていれば、悩みの元の持ち主は、気にせず陸を歩き始めます。
私はと言えば、「なるほど難しい問題やな~」と、パズルゲームのように、改めて一人で考えてみたりするのですよ。
パズルが解ければ、悩みを捨てたのと同じか、それ以上の未来図が浮かび上がることもありますから、悩みってのはけして捨てたもんじゃないのです。
というか、悩むことに意味があるわけではなく、「悩みの種」こそ、最重要ピースなのですよ。
育って根を張られると厄介ですが、種のまま保管出来れば、、そしてそれを調合できるようになるならば、、超強力な滋養強壮剤になりうるのです。
沼底で調合した薬は、場合によっては他人にも使えます。まぁそれをするには、人様の悩みでも一回は自分に落とし込んで、真剣に向き合っとく必要がありますけどね。
ミクマク的な矛盾のお話ですが、、
沼は己の内の深い所にあり、且つ己を飲み込む果てのない存在なのです。
まぁ要するに、悩み取り込んで抗体作るような感じですな。ポイするのは勿体なかです。
ただまぁ、陸では足枷になることが多いので、「その悩み、置いてけ~」と、妖怪「おいてけ堀」になる私がおるわけです。
そう言えば、「おいてきぼり」って、語源とどっちが先なんやろ??
日本の妖怪ってそもそもが概念なので、沼にいるヤツも多いのですよ。沼から生まれたであろう妖怪も少なくないですしね。
私もいつか、、妖怪を生めるところまでいけたらいいな。
いやむしろ、妖怪になれたらいいな。
「早く妖怪になりたい」
ま、ぬらりひょんの話はさておき(←してねぇ)、ちょっと話の軸を戻しますと、、沼で静かに紐を解いていくことで、明るい未来を見出すこともあるのでありますよ、と。そういうお話でありまする。
己が歌詞をば繰り返したるけれども、、
アカルイミライは、どこにいたって拝めるのですよ。
シュビドゥバッパッパーン♪ なのですよ♪ (←黙れ)
ただね、沼に浸りきりでは見られない景色も沢山ある。
これも絶対だと思うのです。
少なくとも、夢アドさんが武道館に辿り着いた時に見られたであろう景色は、沼で構築することは出来ません。これは、オタクサイドが見る景色も、、です。
だから、落ち着いたらまた、フラフラと出かけた方が良いのですよ、私もね。
欲した景色は見れないかもしれないけれど、、それと同質かそれ以上の景色を求めて、旅もするべきなのです。そういうのは、沼には転がってないですから。
ただね、、そういう新たな景色への地図や、扉を開く鍵みたいなものは、実は沼に沈んでたりするものなので、、慌てて手ぶらで飛び出すよりは、今自分が照らせる沼底を丁寧に攫ってから、次へ進むことを推奨しておる私です。
沼人として。
沼、いいとこよ? たまにはゆっくりしておいき? と。
因みに、私自身もお出かけはしますからね?
住処が沼だというだけで、沼でしか生きられないわけでも、出かけるのが嫌いな訳でもないのです。
まぁ、じゃっかんヒキってますけどね(ㅎ.ㅎ )w←
私は、ちゃんと夢を見たことがありません。(たぶん)
いつも、目の前にある道の先が気になって、とりあえずその道を歩いてみたくなるから、「この道を突き進むと決めた」みたいなことがありません。
絶対ここに行くんだ!っていう目的地があったことがないのです。
というか、目的地が決まってしまうとつまらなくなってしまう質でして。。
だから、目的地への道が絶たれた人の気持ちは、きっとちゃんとは解りません。
夢アドさんのライブを武道館で見たい!! ってのは、勿論本気でしたけど、それはやっぱり、水無瀬さんの夢に乗っかった夢でしたので、、そもそも私の歩く道ではありませんでしたからね。
勿論、自身の道を絶たれたこともいっぱいありますけど、「この道じゃなきゃ…」と思ったことはないから、、うん、やっぱりちゃんとは理解できないのですよ。
そんなんだからこそ、沼でフワフワしていられるってのもありますし、沼の概念に泳がされている、、とも言えなくはないんですけども、、それがまた楽しくもあるってのが悩ましいところでして。
沼の居心地を体感的に探り出したら、なかなかどうして抜けられないんですよね~。
「はてしない物語」の中に描かれている「悲しみの沼地」の「沼感」って、わりと「沼」の心理であって、、一方で側面的だなと思っているのだけれど、、悲しみに飲まれてしまうと身体が重くなってどんどん沈んでしまう沼なのですよ。
だから、ポジティブになれっていうのが、悲しみの沼の攻略方法なんですよね……。
アトレーユはアルタクスに、「悲しみに飲まれるな、頑張れ!」と声をかけ続けるのです。。
が、曰く私は、沼に落ちたら「頑張るな」です。
むしろ、「落ち着け」と。
いつだってポジ変いたって大切。
なんですが~、、
偽ってポジ変したって解決……は、しませんにょ?と。
「ポジティブ変換」と「ポジション変更」がかかってるんですが、、略したら同じ過ぎてどっちがどっちなんだか……ドッチのボールなんだかドッヂなボールなんだか、、まぁ、どっちもドッチなんで、それこそ沼に放っておきませう。(どーでも良いですしね←)
それくらい意味の無い悪い足掻きだったりするのですよ。(←超強引)
正直、逆効果だったりしますしね。
大きな道が絶たれた瞬間は、途方に暮れるものです。。急に道が一本も見つけられなくなる。
そんな時、私の頭を過ぎるのは、「不思議の国のアリス(Disney版)」の迷子のシーンの映像なんですが。。
唐突に、しかも理不尽に道を消される思いって、正にあんな感じなんでしょうね。。
ただ、道の概念をはずれて沼で生きてる私からすれば、道が消えた、ということは「景色が変わった」ことを意味するので、ある種の前進なのですよ。
そもそも、道を歩いてきたということは元位置にいたんじゃ見れないものをいっぱい見てきたはずなのですよ。
繰り返しますが、私は大きな道を駆け上がったことはありません。
これまた己の歌詞をなぞりますれば、私が画用紙に描いた道はそもそも迷路なのですから。
まぁ、あの曲の「君」に具体的なモデルはいませんし、水無瀬さんは何も描かなかった「君」には、たぶん当てはまらないでしょうけれど。。むしろちょっと迷路よりな気もするんですが、ただ、空に続く坂道を駆け上がっていた人でもあると思うのです。
駆け上がる道を描ける人には、また必ず駆け上がる道が現れます。水無瀬さんは、どっちの気配もするのだけれど、また駆け上がる姿を見たいな~と、実に勝手なことを思ってる私です。
迷路は入り組んでますから、滅多に視界が開けることはありません。いわゆる「絶景」に辿り着く可能性は極めて低いのです。沼はもっとです。
だけどね、私もわりと色んな景色を見てきた、とは思うのですよ。
沼の底だけじゃない。明るい世界もドス黒い世界も、バラ色の世界も色の無い世界も。
人が羨む物ばかりかは解らないけれど、っていうか絶対違うけれど、それでも色んなものを見てきたのですよ。
そもそも目指していないだけで、誰かにとっては駆け上がるべき坂道もフラフラと、しかして真面目に歩いていたりもするわけです。
まぁ、こんなことを言ったら、バックパッカーやら冒険家やらに「もっと広い世界を見てから言えよ」って言われそうだけども、、別に世界遺産や大自然が見たかったわけじゃないからさ。。(具象の話をするなら見てみたいものも勿論あるけどね)
具体的に言うならば、、ある程度大きなステージも小さなステージも踏んできたわけだけれど、私の場合、目に焼き付いているのは案外中規模のステージだったりするもんでして、、
こればっかりは実際辿り着いた人しか比較は出来ないし、その上での結論も人それぞれだと思います。
だからね、あくまで私の場合の話です。
私は、「見れなかった景色」のために、フォルダの容量を割き続けるのは、勿体ないなぁ…って思ったりするので、じゃあ次はこの道や~って色んな道を歩いてみるのが楽しかったりするのですよ。
目指すものがある人にから見れば格好悪い生き方なんでしょうし、私自身「これでいいのか?」と首を傾げることはあります。が、まあ、かっこよければ楽しいのかと言えば、そんなこともなく、、。
これは「言いたい」的な大層な話じゃなくて、水無瀬さんのことばっか考えてて、ふと思うことなのだけど、
きっと水無瀬さんも、二年の間に観られた景色、いっぱいあると思うのですよ。大きさの話なら、横アリだって、くっそデカいんやで?と。。 誰でも立てるステージじゃないんやで~、と。
まぁ、横並びのライバルや遥か上を見たらキリが無いですし、「ワンマン」で立つのとは「意味」が違うというのは解りまするが、、かと言ってたぶん「武道館」のワンマン!じゃなくちゃいけない理由もなかったんだと思うのですよ。(私は…思う……気がする…というレベルのお話です…)
「もっとずっと一緒に」が一番大きくて、その上に、「もっと大きなステージへ」があったんじゃないかなって、、勝手に思っておるのです。
まぁ、私は武道館を目指したことがないので、、その特別感はほんっとに分からないだけなんですけどね。。
どちらかというと、「そんなに人いっぱいいるのしんどい…」、「絶対「みんな」になんか届かんやつやん」と思ってしまうので…(←こういうとこはシンプルにネガティブw)大き過ぎるステージはある種宇宙ですよ。。
例えば、居酒屋で誰しもが発言を期待するような、、例えばカラオケで誰しもが息を飲んで聞き入るような、そんなレベルの特別さも持ち合わせていない私が、、何千人、何万人に発信してどうするのさって、思ってしまうのです。。
が、、
その一方で、自作の曲やで~とギター抱えて前に出れば勝手に静まってくれる現実や、舞台の真ん中で真剣に演じていれば勝手に「みんな」が受け取ってくれる真実も知っているわけでして。。
見ず知らずの人に「響いた」と言われる喜びも、穿った目でヘラヘラ笑ってしか見れない友人さえ黙らせた時の快感も(←いやそれはまた別w)知ってはいますので、、
そのずっと先の、もっと大きな感覚のお話なんやろうなぁ~くらいには理解できるんですけどね。
プレイヤーとしても、目的や目標がないままステップを重ねて、体感や実感をインプットしてきただけなので、、「夢」として目指すものがある人たちの言葉は、同調も否定も出来ないのですよ。
そこは、しちゃあかんと思ってますしね。
勿論、ステップですので、手近な目標は刻んできてますし、常に課題は見つけてますけどね。
目先の仕事を取りに行ったり、決まった仕事と向き合うスタンスは「知ってる」し「やってきた」から、お話できますけどね。それも、あくまで「私は~」のお話ですし、きっと似て非なる感覚なんやろな~、ってのは解るのです。
だからこそ、ね。
忘れて~とは口が裂けても言えないし、残念だったねとも軽はずみには口に出来ないのですが、、
その上でやっぱり思うのは。。
「見られた景色を大事にしよ」ってことと、「また違う景色を見るためにお出かけしよ?」ってこと。
ただまぁ、すぐに出かけるのもありですが、、
もし沼におるのなら、地図や鍵を見つけていくのも良いんじゃないかしら? と、思うのです。
メンブレで窒息しかけてジタバタしてた奴が何を言ってんだか、、と自分でも思いますけどね。
あれは、知らん間に種が芽を出して、根を張っていて毒を吐きだしていることに気付けなかったからでして。。まぁ、そちらは手間かけて毒抜きしてまいりまするよ。。
この毒を耐え切れば毒からでも免疫つけられたりします。ちゃんと抗体が作れれば、同じ毒に苦しんでる人を助けてあげることも出来るのは、種と変わらないのですが、、……私のガッツリ食らう毒って、あまり人に感染らないと言いますか……「何それ?」ってなることが多いので、今回の病みを全力で消化するか否かは、未だ検討中であります。ひとまずは、毒抜きしてから考えようかなぁ、と。
まぁ、でも毒食らって暴れてるやつには近付かないにこしたことないですけどね。(←おまえの話だ)
いやはや、、今回もまた長いなぁ……。
話に筋がないからまとまりも無いですし、やはしただただ独り言でありますな。
浅瀬のループですみませんが、この辺で切っておきまする。
さてはさておき、お絵描きでございます。
って、、文字の整理がおっつかなくて、絵もTwitterとラグがあるわけですが…。
またまた今までとはちょっと違ったテイストで、描いてみますた。
というか、塗りが大きく違いまする。
最初から、こういう塗りにするつもりで描いていたので、いつもより線数が多いです。
塗り始める前の下絵がこちら。
ぁ……透過で保存してた……orz
失礼しますた。
上の透過画像を白地に貼ったものがこちら。(二度手間)
あえてラフさを残した部分もありますが、いつもより線が細かく丁寧なのですよ。
しかして、水彩風の塗りの方が今ひとつだったのか、下絵の方が可愛いかもですね。。
難しいなぁ。。
今回は線の強弱も使っているので、線画段階でも表情ありますよね。
逆に塗りが蛇足感。いや、絵としての空気感は好きですが、「ゆきちゃんはもっと可愛い!」って私が私にプンプン丸です。
いつも真ん中くらいに絵を貼るから、やっと
折り返しかよ……って思った方…、安心してください、終わりますよ!
今回は、途中に出てきた「泥足にがえもん(ナルニア)」と「スケアクロウ(オズ)」(←出てきてねぇw)は、たぶん私の思考パターンの一部を担っていますね~ってことは、発見でありますた。わりと、原点に近い気がします。(あくまで、ある一面に限った話ですが)
彼らは、「無理だ」「出来ない」「やりたくない」「面倒だ」と、、ろくな心構えを口にしません……が、結局やってくれんのは彼らなんです。
洞木くん(氷菓)っぽい感じもしますが、無気力で言ってるわけじゃないのがミソ。
出てくる言葉は同じでも、卑屈とネガティブは根本が違います。まぁ、この二人は極端なので、卑屈感もしっかりあるけれど……(にがえもんは嫌味も言いますしね💧 言葉だけ見ればなかなかにクズ野郎です)
やらないことへの言い訳として出てくるネガティブではなく、やるために向き合った結果見つけた難所なのですよ。
彼らの使う言葉は実際に言っちゃうと周りのモチベも下がっちゃうので、あまり口にはしないですが、 私が極端に避けている言葉があります。
私は基本「出来る」と言いません。「やる」と言います。
まぁだから、、某鬼のお兄ちゃん(アリャリャギじゃない方)の鼓舞に難癖つけちゃったってのもあるんですよね。
私のモットーは、Can't but do! ですので……。
出来ないからってやらない理由にはならないし、そもそも出来るか否かではなくやるか否か。。だと思ってますので。
だから、私が何かに立ち向かう時に使う言葉は「やってやる」に留まるのです。
根拠の無い「出来る」はいらないし、努力は根拠にならないと知っていますから。。
勿論、努力は文字通り力ですから疑っちゃダメなんですけどね。縋ってもダメなんです。
無論、大人になったらTPOはあります。
プレイヤーは「出来ます、やらせて下さい」が基本だし、逆にビジネスシーンでは「出来ません」はきちんと伝えて断る必要があります、、
一応、その辺を分かった上でのベーシックスタンスです。(あー、やだやだw)
ってな訳で、沼人らしからず、沼のほとりよりダラダラと長文失礼いたしました~。
↑にがえもん。